今にも落ちて来そうな空の下で

「そうだな…わたしは“結果”だけを求めてはいない。“結果”だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…近道した時真実を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな…違うかい?」
このシーン(JC59巻)を見るためだけに、ジョジョの第五部は読むべきだと僕は思う。


これがどういうシーンかというのは、
http://kajipon.sakura.ne.jp/art/jojo-story3b.html
のシーン39を見てください。


最初に、同僚は「結果『だけ』を求めてはいない」と言うのは、この台詞を考える上で大事だと思う。
結果というのは確かに大事。だから求めざるをえないし、どうしても欲しくなる。
同僚もそれは否定しない。
ただ、それを欲しがるあまり、それにばかりとらわれてしまうのは良くないと言ってるのだ。


例えば人に好かれたいとする。
好かれるという「結果」はとても欲しいものだ。
だからあいさつもする、嫌われないように気をつける、話題も仕入れる、外見にも気をつける、他人の気分を害するようなことは口にしない、他にもいろんなことがあるだろう。
とにかくさまざまな努力をする。
だが、好かれるという『結果』がすぐに出るかといえば、まれにそういうこともあるだろうけど基本的にはノーだ。
相手にしてみれば、今まであいさつしなかったやつが急にしてくるようになったからと言って、好意は芽生えるかもしれないがそれが表面に現れてくるまでにどれだけ時間がかかるだろうか。
これから関係が始まるのならまだしも、今までマイナス点を積み上げてきた人が持ってる印象を変えるのに、どれだけ時間がかかるだろうか。


結果が出るのを待てないからと性急に結果を求めればどうなるか。
「どうして好きになってくれないのか」「僕はどうして嫌われるのか」と再三再四問うてみたとしよう。
それで好きになってくれる人はいるだろうか。
「嫌いなの?」「いや」「じゃあ好き?」という二択を迫ってみようか。
それで好きになってくれる人はいるだろうか。
そういう近道が、むしろ求める結果から遠ざかることにつながってしまってはいないだろうか。
遠ざかってしまえば、求める結果は出ない。
「これだけやってるのに、どうして好かれないのか」とやる気も次第に失せていく。


努力に求める結果がついてくることが約束されてるのは、お話やゲームの中、せいぜい学校の中だけだ。
畑を耕し、日々世話をしても、一度の台風で収穫がゼロになることなどしょっちゅうではないか。
毎日素振りをしている少年が、必ず四番になれるわけではないではないか。
僕らはそれをわかっていながら、どうしても近道をしてしまう。
それは、僕らの社会が、常日頃『結果』を要求するからだ。
大勢の人が有機的に行動するには、どこかの時点で締め切りを設ける必要がある。
瓦がいつ焼けるのかわからなければ家は建てられない。
だから納期までに必要な数量の完成した瓦という『結果』を求める。
その『結果』だが、もっといい瓦があれば、そっちに乗り換えられてしまう。
瓦の作り手の生活も、瓦を作るために費やした費用も努力も時間も関係なく。
つまり『結果』とは、やったら終わりではなく、際限のない向上を求められるものなのだ。


自分にとっては努力でも、他人から見たらそうではないということは多々あることだ。
僕は年々体重が増えてるが、いくら食べても太らない人と同じことをしても、他の人から見れば僕の方が努力が足りないように見えるだろう。
それを「なぜ僕の努力を見てくれない!」と非難することは簡単だが、それで問題は解決しない。
なぜなら、他人に見えるのは『結果』だけだからだ。
だからこそ『結果』を求めて焦ってしまうのだろうけど。
『結果』が出なければ、努力の方向性が間違ってるかもという疑念も涌く。
近道もしたくなる。
そういうのが、回りまわって、努力をしたからと『結果』を強要するような態度になってしまう。
「こんなにがんばったんです」「こんなに努力したんです」という態度には、いやでもそれを認めてやらなければならないという無言の圧力がある。
「10年かけて描いた絵なんだよ」と見せられたら、どれだけヘタクソでも褒めるように。


だからと言って、『結果』を求めてはいけないというわけではない。
結果を求める気持ちこそが努力の源なのだから。
だからこそ最初に書いたように「結果『だけ』を求めてはいない」、ということになるんだと思う。
努力は結果を約束しないけれども、僕らにできることは努力だけ、欲しいのは結果だけ、というところが、今まで書いたような齟齬を生んでしまうのだと思う。
そういう齟齬に苦しんでいる人には、だから焦る気持ちをどうか落ち着けて欲しいと思う。
逆に考えれば、誰がやってもすぐに結果など出ないのだから、自分が結果を出せないのも仕方のないことなのだ。


さらに言えば、アバッキオの同僚は、暗に「自分ひとりで結果を出す必要はない」と語ってるようにも思う。
アバッキオのやったことは、チームでの作業の一つで、例え彼が死んでも、彼の意志は引き継がれ、最終的に結果を出すことができた。
それは、自分ひとりの中で作業を完結させようと考えていればできなかったことだった。
同僚がやってたことも地道な証拠集め。同僚はきっと自分ひとりで証拠を集め、犯人見つけ、捕まえるなどとは思ってもいないだろう。
それは自分ひとりではできないことだし、そうする必要もないことだ。


自分の事情は自分にしかわからない。
誰も、あなたが結果が出せないのを、あなたが今までサボっていたのか、仕方がなかったのかなんてわからない。
周囲の圧力は確かに負担だが、僕らはその努力する孤独に、耐えていかなければならないのだ。
『結果』が出るまで、『向かおうとする意志』を持ち続けられるかどうか。
それが、『結果』を出せるかどうかの分水嶺なんだと思う。