今日の日記

ダンボール

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三ノ宮に落ちてた謎のダンボール。

読書

孤独のグルメ孤独のグルメ

なんと図書館にあった。旧版のほう。内容は一緒だが、大きいのがうれしい。

以下、読んでない人にはわからない世界になります。
五郎語録

・「ぶた肉ととん汁でぶたがダブってしまった」(第一話 東京都台東区山谷のぶた肉いためライス)
今までずーっと「かぶってしまった」と言ってましたが、ダブってしまったが正しいです。すみません。
五郎は、ご飯の要素が重複するのをやたら嫌う。
シュウマイを10個くらい食うのはOKなのに、炒め物と汁物で、味付けも調理方法も違う豚肉が別の皿で出てきただけでアウト。
他に「さざえの壺焼きでさざえがダブってしまった」(第九話)「おでんとうずらと卵焼き……卵が重なったな」(第十五話)もあり。
・「しかも岩ノリが…多い…。どう使えばいいんだろうな。丼に対して」(第四話 東京都北区赤羽の鰻丼)
句点は僕がつけました。そのままだとタイトルからして「うな丼に」と読めるので。
自分で頼んでおいて、どう使えばもないものだが、注文してみたらイメージと違って戸惑うことはよくある。
五郎にとって食事は一個で完結しなければならないので、うっかり頼んでしまったものだとしても、そこでは何らかの役割をになわなければならない。
そもそも日本の食事は、ご飯をおかずで食べるという形で、つまりおかずにはご飯を味付けするという役割がある。
だから、五郎のご飯に対する世界観は、それを推し進めたものだと思う。
もちろんその時々の都合で、ご飯が多かったりおかずが多かったりで、バランスを欠くことはあるのだが、普通は多いほうにあわせて食べるとか、なんらかのつじつま合わせをするものである。
五郎もそれは理解しているのだが、それはその世界観をゆがめるようでなんだか不愉快なんだと思う。
五郎にとって、食べ方とは、出されたメニューを読み解く方程式であり、そこには美しい正解があるものなのである*1
・「腰にきた……というより腹にきた」(第四話 東京都北区赤羽の鰻丼)
慣れない早朝の仕事が終わった後の五郎の感想はこれ。
五郎はこれだけ食べることが好きなのに、自分で料理しない。
当然、仕事後に食べる弁当など用意してない。
納品で荷物の上げおろしするんだから、ちょっと早起きして飯くらい食ってから仕事にこいといいたい。
でも、自炊するとなると、五郎はきっと買い物の時点から自問自答が始まってしまう。
「このぶた肉があれば、すべての野菜がカレーの具材になりうる」とか。
それを避けてるのかもしれない。
五郎の仕事に対する態度はよくわからなくて、例えば大事な商談前に、元気つけると称して焼肉を食いに行く。スーツで。
臭いがひどいと思うのだが*2
そういう意味では、空腹で納品に行くってのも当たり前なのかもしれない。
・「ストリップか……」(第十八話 東京都渋谷区渋谷百軒店の大盛り焼きそばと餃子)
このときの五郎の表情はすばらしい。
昼間っからストリップを「見てみようかな」という五郎の発想はもう理解不能なんですが、これは、変化の取り残され排斥される悲哀の描写なんですね。
「ここはもう俺の来る場所じゃない」=渋谷が若者の町になったという五郎の感慨は、ある意味当たっててある意味外れてるわけです。
確かに渋谷を闊歩してるのは若者で、それは五郎の言うとおり。
渋谷は渋谷なんであって、そう思うということは、五郎がもう若者ではなくなり、自分の居場所を見出せないからそう思うということで、つまり五郎が変わったとも言えるわけです。
そうやって渋谷に排斥された、と思う五郎に重ねあわされる象徴として、閉店してしまったストリップ劇場があるわけです*3
ちなみに表紙のイラストの背景は、そのストリップ劇場のあたり*4
パースからして、実際に五郎がそこに立っているわけではないようです*5
焼肉食べたときもソープを気にしてたくらいなので、五郎はわりとそういうのがお好きなのかもしれません。

*1:事実、「〜は正解」という物言いは多い。加えて言うなら、何を食べるか、のところから彼の正解追及は始まっていて、注文するまでやたらと自問自答する。

*2:関係ないが、そのときの「いかにも肉って肉だ」という表現は、美味しおんぼのアンチテーゼがよくにじみ出てると思う。

*3:五郎はその劇場に行くのを「十年ぶりぐらい」と表現してる。

*4:文庫版では違います。

*5:脳内イメージ?